-
概要
心臓は効率よく血流を駆出するために、様々な渦流を発生させることが知られています。例えば500年以上前にレオナルド・ダヴィンチが想像で描いた心臓内部の絵画にも渦血流が描かれており、人体の神秘として人類の興味を引いてきました。近年では心エコーや心臓MRIなどの診断機器の進歩により、このような渦血流が本当に心臓内に発生しているという事が画像で確認できるようになり、更に、心疾患ではその渦のパターンが乱れることなどが解明されてきました。しかし、心臓は全体が筋肉でできたポンプであり、心臓自体が拍動で動きながら非常に複雑な血流を発生させるため、渦血流を一つ一つ拾い出すことは難しいとされていました。
この度、京都大学大学院理学研究科教授坂上貴之と名古屋市立大学心臓血管外科講師板谷慶一は共同研究により、トポロジー(位相幾何学)と力学理論を用いて、心臓内の血流パターンを同定する理論(流線トポロジー解析)を構築することに成功しました。
心臓は前述の通り、心臓自体が拍動して動くことに加え、弁などの心腔内構造物も拍動で動くため、流体が複雑すぎるため、工業的に扱われる流体のように、従来の流線トポロジーの理論をそのままは当てはめる事ができませんでした。そこで私達は、拍動する心筋壁など、心内腔の境界を「退化特異点」と呼ばれる点につぶし、心内腔を球面にマッピングするという数学的な処理を行うことによって、渦血流を同定できるようになりました。この理論では、渦血流のひとつひとつに文字を割り当て、渦を「解読」することができ、健常な心臓と極初期の心不全にも大きな違いがあることなどを発見しました。これは、流線トポロジー解析においても世界初の新理論構築であるばかりでなく、厳密な数学に基づいて、古来より神秘とされた心腔内渦血流の生理学的なメカニズムを解明し、心疾患の病態を定量的に示せる、新しい心機能の分類が可能になると各方面から期待されています。
図 TFD解析で、心臓内の渦流を文字列として表現し、それに基づいて心機能の分類を与え、見通しの良い心疾患の医療の実現に役立てます(TFD解析のイメージ)
本研究成果は、2023年8月11日(現地時間)に米国の国際学術雑誌「SIAM Journal on Imaging Sciences」にオンライン掲載されました。
-
1.医学と数学の研究背景
医療の進歩とともに健康寿命が延びつつある今日、循環器疾患では一つの病態にとどまらず、心臓弁膜症に不整脈を併発したり、先天性心疾患に心不全を合併するなどの、複合的で複雑な病態をきたす患者さんが増多しています。従来の医学では経験の蓄積や統計データに基づき、各々の疾病に対してその治療方法が決められ診療ガイドラインが策定されてきましたが、前述のような複雑病態に対しては、患者さんごとに合わせたテーラーメイド医療が求められるようになって参りました。しかし、心臓の病態を詳しく理解するために心腔内渦血流を把握するには非常に困難であり、旧来より人類の神秘の一つとされてきました。
一方、近年画像診断技術やコンピュータ技術が進歩し、心エコーや心臓MRIなどの医療用画像診断機器で血流の可視化ができるようになり、心臓の渦流は心不全などでは回転が弱くなることなどが観察されてきました。しかし、単に複雑な渦流をただ観察しているだけでは、その渦流が効率よく血液の拍出に貢献しているかを定量的に評価できないため、流れのパターンを正確に抽出する必要がありました。
数学には「トポロジー」と呼ばれる幾何学の分野があります。これは、与えられた図形に対して、そこに少しずつ変形(摂動)を加えて、それでも変わらない図形の性質を調べる分野です。京都大学大学院理学研究科 坂上貴之(応用数学・数理流体力学)の研究グループでは、トポロジーや力学系理論などを用いて、流れによって動く微粒子の軌道全体のトポロジカルな構造に着目し、ノイズや誤差といった変動(摂動)に対しても堅牢に残る流れの普遍的構造を把握し分類する数学理論(流線トポロジー解析)を構築してきました。
一方、名古屋市立大学心臓血管外科の板谷慶一は心エコーや心臓MRIを用いて血流を可視化する方法や生理学的な拍動を再現する血流シミュレーションの手法など「血流解析」という分野を開拓し、心臓内に様々な回転する流れ(=渦流)が発生し、病的な血流の乱流が強い摩擦エネルギーを発生し、そのエネルギー損失が心負荷となり心不全を惹起することなどを突き止めてきました。また板谷は血流解析のための医学研究支援を行っている株式会社Cardio Flow Design(東京都千代田区一番町、代表取締役西野輝泰)の創設者のひとりとして、先天性心疾患などの複雑な流体を解析し、最適な血流が得られるような手術設計を全国の心臓外科医に提供してきました。
坂上と板谷は、共同研究の中で心臓の血流画像で示される渦流に流線トポロジー解析を適用するにあたって、ダイナミックに運動する心筋や心臓弁の運動が血流を発生しているため、従来の理論をそのまま適用できないことに直面しました。坂上はこれに対して心臓壁や心臓弁の運動を表現するために「退化特異点」という概念を導入し、心臓の渦血流を定義する理論を構築し解決しようと試みておりましたが、渦血流は心腔内の複雑構造や、心臓の拍動そのものによる運動で血流衝突が起こる超複雑な流体であり、ここから渦流を客観的に定義し抽出することは困難でした。そのため、パターンの同定もできず、心疾患を渦流にて定量評価することができませんでした。
-
2.問題解決のアイデアとブレークスルー
解決した課題
坂上グループの開発してきた流線トポロジー解析の数学理論では、(i)流れが非圧縮性を持つこと、および(ii)境界においてno-slip(すべり)境界条件を満たすことを流れデータに要請しています。このことを心臓に置き換えて考えると(i)エコーなどで計測した断面にいわば血流が閉じ込められているように断面内だけで血流が渦をえがいている状態で、かつ(ii)血液を満たしている心臓の構造物である心筋壁や心臓弁は動かず血流がその境界を滑っていく状態を仮定していることになります。しかし実際には心臓は拍動を繰り返し、また内血流の境界に当たる心筋や心臓弁などの構造物は大きく変動し流れの駆動力や発生源となっています。また、心臓内の血流は当然三次元的でありエコーで計測する断面に沿って流れることもあれば、断面を通過する血流もあります。そのため従来手法の適用が難しく、これらの課題を解決するような数学理論が必要でした。
問題解決のアイデア
流れの圧縮性の問題点(i)は、従来の非圧縮理論を数学的に拡張することにより解決されました。動く境界条件の問題点(ii)は、流れ領域の境界を一点につぶして同一視するという数学的操作を通して得られるベクトル場の退化特異点(ss-bundled n-saddle)を理論に取り込むことにより解決しました。また、心エコー画像データに対して、位相的前処理(topological pre-conditioning)という数学の理論と矛盾しない処理を応用し、医療用画像診断機器から得られた画像データに適用しました。
研究成果
本研究グループは、心血流エコーやMRIから得られる流線画像データに対して適用できるTFDAの数学理論を完成しました。これを用いると、心臓超音波VFM(Vector Flow Mapping)によって得られる健常例の左室心尖部の長軸断面で得られる収縮期血流画像(下図左パネル)から、特徴的な位相構造を抽出して数学的に分類し、さらにそのパターンに固有の文字列表現(COT表現:下図下)を割り当てることができました。このCOT表現後に一部の特定文字列が心臓血流内部の特定渦領域(下図右パネルの赤色部分)を表現するので、これを「位相的渦構造」として、数学的にも曖昧さなく定めることができます。このような心臓血流エコー画像をトポロジカルデータ解析する技術開発ができたのは世界初です。この結果、これまで明確な定義がなかった心臓血流が作り出す「渦流」に、TFDAは「位相的渦構造」と呼ばれる新しい概念を定義することに成功しました。さらに、このことにより、渦構造と心臓のポンプとしての機能や心疾患の病態を位相的渦構造で評価できるようになりました。
図1 (左上)心エコーVFMのデータ
(右上)TFD解析によって得られた渦血流領域(赤い領域)
(下)TFD解析で得られるCOT表現文字列
※画像は超音波画像血流解析ソフトiTEcho®(研究用)で作成した物です
苦労した点:
本研究は、数学と臨床医学間の分野横断型研究ですが、この研究のきっかけとなったのは、坂上が京都大学大学院理学研究科内において開室している「諸分野のための数学よろず相談室(Math Clinic)」において、板谷からの質問を受け付けたことです。質問を受け付けてから今回の成果にいたるまでに対話を重ねること5年、坂上は心臓の解剖や生理学を学び、板谷は幾何学やトポロジーを学ぶこととなりました。さらには坂上や板谷はCardio Flow Design社のエンジニアたちと議論を重ね、医学や数学の難解な専門的知識を要するこの理論の実装を成功させました。本研究では、異分野研究における言葉の壁をどう乗り越え、それをどう高いレベルでの数理科学の研究として昇華させ、さらにその成果を臨床医学へどのように還元していくかといった議論をまとめ上げるのに苦労しました。
-
3.波及効果、今後の予定
今後の予定:
研究成果は、心エコーや心臓MRIなどの医療用画像診断機器から得られる「渦流解析」に曖昧さのない文字列を付与し、渦血流の機能を定量的に評価することができます。この技術は特許として国内出願も済ませていますが、本当の社会的インパクトは、この理論が心臓の医学生理学上の問題を解決する基礎医学に実用されたり、循環器疾患の診断や治療を変革するように臨床医学に実用されたりして初めて出てくるものです。Cardio Flow Design社では、本理論を実装する心臓エコー解析ソフトを開発しており、クリニックレベルでも簡単に血流解析ができる世界を5年以内に実現したいと考えております。
波及効果:
心臓は血液を全身に駆出し、効率よく全身臓器に酸素を運搬するためのポンプですが、これまではポンプ全体の定量評価は難しく、心臓弁や血管などの構造物の異変しか診断できておりませんでした。
図2(a)健常な心臓の心エコーVFMデータ とTFD解析で得られた渦流領域(赤)
(b) 心不全患者の心臓の心エコーVFMデータとTFD解析で得られた渦流領域(赤と水色)
※画像は超音波画像血流解析ソフトiTEcho®(研究用)で作成した物です
この研究成果を通じて、これまで非常に重要な役割を果たしていると信じられていながらも明確に捉えられなかった心臓血流内の「渦流」が曖昧さなく同定され、また渦を支える血流の構造が余すところなく解明され、長年人類の神秘とされてきた渦流の役割やメカニズムが明確になり、医学生理学分野での基礎研究として意義が生まれてくるであろうと考えます。また心疾患の診療においても、例えば健常例と比べて心不全例ではどのように渦が分離し崩れていくのかなどが目で見ても明らかになり、また、質的な差として数学的に表現され、心不全などの心疾患ではなぜ血流の拍出効率が悪くなるのかといった病態自体の解明が期待されます。
この研究成果からは心臓の機能の本質である心臓血流そのものが診断され、心臓渦の構造の異常を見分けることができるため、まるで遺伝子変異をDNAから解読するように、渦パターンを表記した文字列から渦異常を検出することができるため、詳細に心臓異常を解析することができます。さらにはこのパターンの経時的な変化から心疾患の心機能予後や治療効果などを予測できるようになるため、次世代の心機能ステージ分類などができ、より見通しの良い医療が実施できる可能性があります。こうした渦流研究の発展でメリットを享受できる心疾患患者さんは、国内のみでも心臓弁膜症200万人、心筋症25万人、先天性心疾患50万人と非常に多く、渦流トポロジー解析が心臓疾患の系統分類を変え予後予想ができるようになった場合、これらの疾患全てに恩恵与えるものと考えております。
-
4.研究プロジェクトについて
本研究は、科学技術振興機構(JST)未来社会創造事業(探索加速型本格研究)「共通基盤」領域(重点公募テーマ「革新的な知や製品を創出する共通基盤システム・装置の実現」、運営統括:長我部 信行)」における研究開発課題「未来医療を創出する4次元トポロジカルデータ解析数理共通基盤のコア遺髪」(研究開発代表者:坂上貴之)による支援を受けて行われました。
坂上教授の研究グループでは、平成28年より京都大学大学院理学研究科内において「諸分野のための数学よろず相談室(Math Clinic)」を開室しています。諸分野の研究における数理的諸課題に関する質問を理学研究科内限定で受け付けています。TFDAに関しては未来創造事業からの支援を受けて、広く京都大学内や産業からの問題を受け付けています。これまでに、31件の問い合わせがあり、本成果も含めて8件が共同研究へと至っています。パーシステントホモロジーを用いたトポロジカルデータ解析(TDA)は、近年注目を浴びている数学発のデータ解析手法ですが、このTFDAは「ながれを言葉に」をスローガンに坂上の研究グループが世界に先駆けて開発した新しいデータ解析手法です。本研究では、その理論を心臓超音波画像で実装することに成功し、心臓血流という非常にダイナミックで乱れた流れの数値化を可能にしました。
この研究成果を踏まえて、坂上研究グループでは、JST未来社会創造事業共通基盤領域「未来医療を創出する4次元トポロジカルデータ解析数理共通基盤」(長我部信行 研究総括、坂上貴之 研究代表者)プロジェクトの支援を受け、流れに関する計測データや数値データからトポロジカルな構造を抜き出す数学理論と、またそれを自動計算するソフトウェアの開発を推進しています。さらに、「ながれの“かたち”を言葉に」をスローガンに、本成果を用いたデータ解析技術をトポロジカルフローデータ解析(Topological Flow Data Analysis = TFDA)と呼んで、様々な実データへ積極的に応用しています。このデータ解析技術には以下のような特徴があります。
○ 流れパターンを“言葉”にする新数学手法:
流れに関わる分野の大量の流れのパターンのトポロジー構造に固有の文字列やグラフ構造を割り当てます。こうした情報を機械学習やAIと組み合わせれば、流れの形の特徴抽出が可能となります。
○ TFDAがもたらす流れの経験知の顕在化と定量化:
従来技術で捉えることが難しい流れに関する「経験知」を誰もが理解できる「文字列」として表現します。さらに、この文字列が表現する流れの構造に、定量指標が付随して定義できるため、それを用いた流れのトポロジーに付随した客観的評価手法を提案できます。
<研究者のコメント>
坂上グループが流線トポロジーの分類のための数学理論を完成させて7年が経ちます。この技術を「“かたち”を言葉に」を合い言葉に社会実装を目指す研究活動を続けています。特に「誰かが何かに応用する数理」ではなく「私達が数理の応用を展開する」という強い思いのもとで、研究を進めてきました。数学の理論ということで、これを応用する皆さんにはとっつきにくいところがあり、こちらが提供できる解析手法を理解いただくためにいろいろ努力を積み重ねる必要もあり、それが成果につながるまでには時間がとてもかかるのですが、今回はじめて本格的に心臓血流解析手法として臨床の現場に使える可能性が高い成果を得ることができました。ここで可能性にとどまらず、数理ソフトウェアの開発、そして実際の心血流解析診断の機器への組み込みを通じてこの成果が実社会に広げていきたいと思っています。
また板谷らCardio Flow Design社の研究グループが心エコーVFMを開発してから10年の歳月が過ぎました。当初は見たこともない渦流が心臓の中で見えるため多くの臨床医が期待を寄せました。しかし、渦が見えることができても定量的に数値化することができず、この技術がどう使えるのか、ということが学会で何度も議論されてきました。一般には医療の現場では必ずしも理屈通りにならないことが多く、生命や人体の気まぐれのような現象と付き合いいながら一人一人の患者さんと向き合っているため、従来の臨床医学は経験の蓄積を重んじてきましたが、今回心エコーが数学と出会い、それを医学の現実に合うように理論を塗り替え、新たな理論を構築することで臨床医学に全く新しい視点が拓けていくと確信しております。今後は臨床研究として実際に様々な疾患での渦血流のあり方を客観的に言語化して観察し、そのパターンの変化などを追跡することで新たな心機能アトラスや心機能分類を構築し、一人一人の患者さんに合った適切なテーラーメイド医療を提供する一助となればと考えています。
<論文タイトルと著者>
タイトル:Topological identification of vortical flow structures in the left ventricle of the heart(心臓左心室渦構造のトポロジカルな同定)
著 者:Takashi Sakajo, Keiichi Itatani
掲 載 誌:SIAM Journal on Imaging Sciences DOI:10.1137/22M1536923
<研究に関するお問い合わせ先>
坂上 貴之(さかじょう たかし)
京都大学 大学院理学研究科・教授
TEL:075-753-2660 FAX:075-753-3700
E-mail:sakajo@math.kyoto-u.ac.jp
<iTEcho®に関するお問い合わせ先>
株式会社CardioFlowDesign
Email:info@cfd.life
<報道に関するお問い合わせ先>
京都大学 渉外部広報課国際広報室
TEL:075-753-5729 FAX:075-753-2094
E-mail:comms@mail2.adm.kyoto-u.ac.jp
名古屋市立大学 病院管理部経営課経営係
TEL:052-858-7113 FAX:052-858-7537
E-mail:hpkouhou@sec.nagoya-cu.ac.jp
科学技術振興機構 広報課
TEL:03-5214-8404 FAX:03-5214-8432
E-mail:jstkoho@jst.go.jp
<JST事業に関するお問い合わせ先>
小泉 輝武(こいずみ てるたけ)
科学技術振興機構 未来創造研究開発推進部
TEL:03-6272-4004 FAX:03-6268-9412
E-mail:kaikaku_mirai@jst.go.jp