再現の難しい微生物培養「匠の技」
バイオエコノミーは、再生可能な生物資源を利用することで現代の様々な社会問題に取り組む手法として、近年急拡大しています。化学・医薬品業界、食品業界、燃料生産など、多岐にわたる産業で展開されており、産業全体のバイオ化が進行中です。その経済規模は2030年には200兆円規模に達すると予測されています。特に、微生物を利用して化学・医薬品素材や食品素材を開発する「バイオ生産」は、脱石油を推進するための重要な分野として注目されています。そのため、国策として微生物の創出および培養生産のためのバイオファウンドリ拠点(※4)の整備等が進められています。
日本では長年にわたり食品素材等の発酵生産が盛んに行われてきたため、微生物培養の分野において大きな優位性がありました。しかし、複雑な生き物のしくみの多くはまだ完全には解明されておらず、私たちが理解できているのはごくわずかでしかありません。化学的な物質生産とは異なり、微生物を利用した生産は、最適な培養条件を見つけることも生産を安定させることも非常に困難です。日本には微生物培養に精通した「匠」が数多く存在し、匠は長年かけて得た知恵とノウハウによってこれらを乗り越えてきました。匠はセンサーから得られるpHや温度、酸素濃度等の情報(以下、「従来データ」)だけでなく、センサーでは得られない匂い、色、見た目などの情報を活用しました。例えば、匂いを嗅ぐだけで培養状態を把握して生産量を定量値のレベルでピタリと当てたり、時には培養槽の窓に付着した液の垂れ具合から培養状態を推測して培養状態を最適化するなど、いわば「匠の技」を駆使していたのです。このような「匠の技」は誰でも簡単に再現できるものではありません。それは「五感」や「勘」といった数字では表現しにくい曖昧な要素を含んでおり、継承や習得に時間がかかるため、急速に拡大するバイオ生産の幅広い分野への展開には対応しきれない現状があります。さらには、生産地の海外移転によるノウハウの流出や匠の高齢化など、日本の発酵技術の衰退は大きな社会課題となっています。バイオエコノミーの拡大に伴い生産技術の革新が迫られ、「匠」不在でも安定した培養を実施できる技術の開発が急務となっています。
微生物培養の「匠の技」をAIが超えるために必要な学習データ
ちとせでは、これまで「匠の技」で行われてきた微生物培養をAIによるコントロールに置き換えるため、微生物培養に必要な学習データの再定義から始めました。生物学では、培養槽の各種センサーから得られるデータと目的の化合物量や菌体量との因果関係を探りながら、最適な培養条件を求めてきました。しかし、AIに学習させるデータは、人がその因果関係を理解できるものである必要はありません。培養槽内で起きている「何らかの変化」を捉え、AI に学習させることで、データと培養状況の相関性を見出して予測することができるのです。
培養槽から得られる「従来データ」だけでは、培養槽内で起きている事象を記述するには不十分と考え、これまで生物学では用いられてこなかった様々なセンサーデバイスを独自開発しました。この独自デバイスから得られるデータ群を「コンボリューショナルデータ®」と名付けました。そして、この膨大なコンボリューショナルデータを適切に前処理・学習し、培養状態を高精度で予測するAIモデルを構築しました。このAIモデルにより、予測に基づいた最適な培養条件を推論し、培養が常に最適な状態になるように自動的にコントロールすることが可能になりました。「従来データ」のみでAIモデルを構築した場合と比べ、コンボリューショナルデータを学習させることで、培養状態の予測精度が格段に増します。これはコンボリューショナルデータが培養液の状態をより詳細に記述できており、それを学習したAIがデータと培養状態の相関関係を正確に見つけているからと考えています。これは人には不可能であり、AIだからこそできる「技」と言えるでしょう。
AIによる微生物生産の自動的な最適化
ちとせと協和発酵バイオ社はこのたび、AI自動培養制御システムの実装評価を共同実施しました。ちとせがセンサーデバイスの実装とAIモデルの構築を、協和発酵バイオ社が学習データの取得とAI自動培養試験を担当しました。システムの実装評価の結果、目的化合物の生産量がこれまでの最高値を超えることに成功しました。これはAI自動培養制御システムが熟練者による培養制御を凌ぎ、高い生産量を安定して達成できることを示しています。
今回の実装評価では、培養に習熟した技術者の手法よりも高い生産量を得ることができましたが、AIが提案した最適条件がなぜ培養状態の改善につながったかはまだ明らかになっていません。今回の自動培養試験の特筆すべき点は、培養試験毎に培養制御の挙動が全く異なることです。例えば、同じ微生物を培養した試験を複数実施すると、ある試験では温度を高く制御し、また別の試験では反対に低く制御していました。このように大きく異なる制御方法が採用されたにもかかわらず、最終的な目的生産物の生産量はどちらの試験もほぼ同等で、人が設定した培養結果よりも高い値を示しました。これは各試験で時々刻々と変化する培養状態をAIが正確に把握し、それぞれの状況に応じて最適な状態に改善するようなコントロールができているためと推測されます。生き物を利用するという特性上、同じように微生物を仕込み、同じ条件で培養を開始しても、結果が異なることがあります。これは以前から培養の安定性に関する課題とされており、たとえ「匠」であっても培養中に精密なパラメータ操作によって培養を持ち直すことは困難とされていました。今回の自動制御システムではこの不安定さをも正確に捉え、最適な状況へのコントロールを可能にしていると考えられます。
バイオエコノミーの拡大へ
今回、ちとせが開発したAIによる自動制御システムによって「匠」の技術を超越した最適な微生物培養のコントロールが可能となり、安定して高い生産量を得ることができるという一つの実例が示されました。今後ちとせでは本システムの開発を継続し、2027年度までの製品化を目指します。そして、本システムが微生物培養を実施する化学・医薬品や食品、燃料生産などのさまざまな業界に導入・活用されることによりバイオエコノミーのさらなる拡大に貢献してまいります。
※1 バイオものづくりプロジェクト
事業名:カーボンリサイクル実現を加速するバイオ由来製品生産技術の開発
事業期間:2020年度~2026年度
事業概要:https://www.nedo.go.jp/activities/ZZJP_100170.html
なお、関連事業としてNEDO「Connected Industries推進のための協調領域データ共有・AIシステム開発促進事業(CI実装)」の成果も一部含まれます。
(参考)NEDOニュースリリース(2019年9月6日)「AIを活用したバイオ生産管理システムの開発を開始」
※2 ちとせは、培養結果の逐次データをデータベースに格納し、クラウド空間でデータを解析するシステムを開発しました。本システムは、リアルタイムなデータ活用機能や、現場の培養者が培養のAI解析結果を確認するユーザーインターフェース機能を備えています。本システムの導入により、培養場所を問わずにデータ解析者と培養者が連携し、AI自動制御システムを稼働および監視することが可能になります。
※2 本システムの開発は、DoerResearch株式会社と共同で実施しました。
※3 本共同研究は、NEDO事業「カーボンリサイクル実現を加速するバイオ由来製品生産技術の開発」において実施されました。
※4 バイオファウンドリ拠点(京都大学/ちとせ研究所拠点)
<ちとせグループ概要>
https://chitose-bio.com/jp/
ちとせグループは、世界のバイオエコノミーをリードするバイオ企業群です。千年先まで人類が豊かに暮らせる環境を残すべく国や多くの企業と協力し、経済合理性を成立させながら技術を社会に展開しています。
◯ちとせグループ全体を統括する「CHITOSE BIO EVOLUTION PTE. LTD.」の概要
・設立 :2011年10月
・本社 :シンガポール
・代表者 :CEO 藤田朋宏 Ph.D.
◯ちとせグループの中核法人として、技術開発・事業開発を行う「株式会社ちとせ研究所」の概要
・設立 :2002年11月
・本社 :神奈川県川崎市
・代表者 :代表取締役 CEO 藤田朋宏 Ph.D./代表取締役 COO 釘宮理恵