富裕な親日家の息子、陳登元は14、5歳で来日、日本の大学を卒業間近の時に支那事変が勃発。故郷が心配で帰国したところを強制徴募され、前線へ送られてしまう。日本人の恩師にその戦争体験を描いた原稿を託し、小説の形で刊行された本書は、100万部を超えるベストセラーとなった。
「僕の耳にはまだ、砲弾にやられた断末魔の人間の叫喚が残っています。腥(なまぐさ)い血の匂いが鼻に残っています。バラバラになった人間の腕や、脚や、首や、胴や、そんなものが眼に残っています」
著者はその感覚が揮発する前に急いで原稿を書き上げた。戦争の“抜け殻”を描きたくなかったからだ。本書が爆発的に売れた理由は、一つには戦争の本質を読者が知覚できるほどの生々しい描写にあるのだろう。
「戦争なるものが一つの掠奪商売であり、軍隊なるものはその最もよく訓練された匪賊である」
これも著者の言葉である。日常的な掠奪、便衣兵、督戦隊、婦女慰労隊など、中国軍の内情を暴露した、これまでにない貴重な記録だったことも、衆目を集めた理由であろう。だが、その著者自身も、国家という大きな権力の下で生きていくためには、その匪賊の一人にならざるを得なかった。
著者は中国人であるが、少年時代から日本で生活しており、感覚が半ば日本人化している。思いを寄せる日本女性もいる。著者は「僕は神の如き冷静さをもって、純然たる第三者の立場から、すべてを客観し、描写しました」と述べているが、そんな著者の境遇が「純然たる第三者の立場」を可能にしたのだろう。実際、著者は自分が体験した“戦争”を、体験したまま描いているのであって、中国を、あるいは日本を批判することを意図してはいない。
日本軍の大陸での戦いは、“南京大虐殺”等の強いバイアスのかかった批判にさらされてきたが、本書は、あの戦争を著者の目を通して客観視できる、優れた資料である。
なお著者は徴兵後2か月で負傷、上海の病院に収容され、退院の直前、再度戦線に送られる前に脱出し、本書を執筆したが、その後の行方は杳(よう)として知れない。
同じ支那事変を日本側から書いた『普及版〔復刻版〕一等兵戦死』の併読もおすすめしたい。
・著者プロフィール
[著者]陳 登元
中国・重慶出身。父親が親日家であったことから、10代なかばで日本に留学。その後、大学卒業を翌年に控えた昭和12年8月に本国へ一時帰国したところ、中国軍に強制徴募され、江南地方の戦線に送られた。2カ月間におよぶ日本軍との激闘ののち、重傷を負って戦線を離脱。収容された上海の病院を退院する直前に脱出すると、本書の原稿を一気に書き上げ、日本にいる別院一郎氏に送付した。その後の消息は不明。
[訳者]別院一郎
著者・陳登元氏の留学生時代に日本語の個人教授を務めていたことが縁で、本書の原稿を受け取る。預かった原稿は大いに出版の意義ありと判断し、必要な訂正を加えた上で、昭和13年3月に、訳者という形で刊行した。
・書籍情報
書名:普及版〔復刻版〕敗走千里
著者:陳 登元
仕様:新書判並製・352ページ
ISBN:978-4-8024-0148-7
発売:2022.12.06
本体:1,200円(税別)
発行:ハート出版
書籍URL:https://www.amazon.co.jp/dp/4802401485/